右手が尺骨神経麻痺の診断を受けてから、できないことが増えた。

料理で言えば、硬いものが切れない、長い間包丁を握れない。混ぜるにも、菜箸を握らなければいけないので、たくさん溢れる。洗い物もスポンジをどっちの手で持ったら良いのか、まだはっきりわからない。この間は、ポットを右手で持っていて、割ってしまった。

昨日は、キャプションを作るために、ハレパネに紙を貼った。貼るところは右左工夫して、なんとかできたけれど、カッターが全然ダメだった。

引くことができない。

握ることはできる。押すこともできる。

摘んだり、引っ張ったり、捻ったり、できない。

ついこの間まで、綺麗にハレパネでキャプションを作れた。苦手だけれど、それなりに真っ直ぐカッターで切れた。今はそれすらもままならず、断面は少し斜めになってしまう。

カッターを左手に持ち替えたらスムーズにできるかと思いきや、右手の握力では定規すらきちんと押さえられない。

唯一変わらずできることは、パソコン操作ぐらいだ。小さな工夫で、同じぐらいか少し劣るパフォーマンスを実現できる。

一番辛いことは、今まで通りに文字が書けないこと。あれだけ筆跡をコントロールするには、握力が必要だった。そして、手の負荷がかかる部分が、まさに尺骨神経が通るところであるため、紙に手を長時間置くこと自体が辛い。自分の字が見たい。自分の好きな字が書けなくて悔しい。この字を私の字と思って欲しくない。

だんだん何ができなくて、何ができるかわかってきたけれど、突然、新たにできないことに直面すると、気持ちが本当に落ち込む。

27マザーズクラブ

わたしの母は、二十七歳でわたしを生んだ。

母の母も、二十七歳の時に母を生んだ。

今まで、祖母の誕生日の度に、幾つになったかすぐ計算できるので、この偶然な一致をありがたがってきたが、自分の年齢が二十七歳を超えたあたりから、焦りはしないものの、少し心の角っこがひりつくような感覚を覚えるようになった。かつては、

「まぁ、時代が違うから」

と言ってさりげなくフォローを入れてくれていた父親も、最近は、「一人で生きるのは大変だよぉ」と全く大変でなさそうに、しかし奥底に気遣いの残る調子で小さくつぶやく。今や都市伝説として知られる、ロック・ミュージシャンの天才は二十七歳で死ぬ説を「27クラブ」というらしいが、我が家の場合はもう一世代ぐらい続いたら、「27マザーズクラブ」が結成できそうだ。

かといって、自らの生活を振り返ってみると、子供の面倒はおろか、他人との共同生活も実際にできるかどうか、怪しいところだ。自分の面倒を見るのもやっとなもんで、そう思うと、二十七歳で人の子の親となった母も祖母も、どんな心境で三十歳を迎えたのか、もはやわたしが想像できる範疇にはない。

幼心に、母親が声を荒げたり、涙を流したり、と感情的になる姿を見て、色々と思うところもあった。時たま、何を怒られているのか、なぜ言われているのか、わからないこともあった。しかし、少し考えれば、今の私が常に理性的に子供の面倒を見れるか、ということなのだ。この点については、いつでも胸を張って否と言える。十代の頃は、そういう親を責める気持ちも生じたが、今や、思い出にある親の姿に年齢だけは追いついて、全く異なる視点で見るようになった。いくら豊かな想像力があろうとも、見えてこない世界があり、心から理解し得ないこともあるのである。

生身の人間が、心身を砕いて、一人の人間を育てていく。「親」というラベルで、見えなくなることがたくさんあるのだろう。我が子がこんなことを考えていることなど、気づく余地もないだろうが、それは常々お互い様なのである。