ニュアンスを擁護して

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完璧さを発展の敵にしてはならない。複雑さとニュアンスを持って、私たちがこれからへの希望を見出すのだ。

 

親愛なる同僚と友人へ

 

フォード財団の会長を務めて七年目を迎えた際、私は気づけば二〇一三年以降のこの世界のあらゆる変化について熟考していた。この波乱に満ちた時代を一言で表すとしたら、賢明な観察者はスラスラと候補のリスト─異常なあるいは忌まわしい、ぎょっとするまたは人道に外れた─を述べるか、この質問自体を拒絶するだろう。その全てを完全に把握するには、あまりに多くのことがあまりにも早く一気に生じたのだ。

しかし、あえて言うならば、自ずと一つの形容詞へと向かっていくだろう。つまり「極端な extreme」へと。

今や異常気象と極端な不平等の時代だ。世界中で、極端なヘイト・グループ、極端なナショナリズム、極端なポピュリズムの時代となっている。他にも挙げればまだまだある。

この極端さのビジネスの事例はよく記録されている。メディアやSNSが利益を得ている一方で、もっとも声高な主張が視聴率とアクセス数を獲得している。さらにこうした極端さは、私たちの議論を乱雑にし社会を分断する、さらなる極端さを生む。

問題は、「極端さ」がこの地球上の危機をまとめる単なるキーワードではないことだ─むしろ、政治的姿勢が、大いに息を切らすようにしてニュース中に蔓延し、ニュースフィードというエコールームで拡大されていることが問題だ。極端な抗議は、あらゆる分野でリーダーたちの筋書きに載っているようだ。この世界観からすれば、ありかなしか、善か悪か、最良か最悪かとなる。

一方で、ニュアンスと複雑さはどこにも見当たらない。そして私たちの極端な挑戦はまったく解決をみないままだ。

ビジネスや美術館、委員会や大学構内の会議室─そしてこれらの至る所─では、共通の基盤の探求が、隅に退くことに取って代わられた。火を以て火と戦うようにして、怒りには怒りを持って対峙し、誰もその温度を下げようとしないようだ。ニュアンスは、誰も進んで行わない譲歩なのである。

それでも、ニュアンスと複雑さがこの新たな規範の明らかな被害者であると同時に、これらだけが被害者なのではない。

私たちの共通の問題を解決するための能力─とりわけ、これに限定するわけではないが、政治において─は、疑問を呈されている。共通の目的が、威圧的な要求として表現されている。パートナーになりそうな者や専門家が、不必要にも被害者や敵と見なされている。

相互理解や共有された視点に基づく架け橋と関係性の構築以上よりも、この対立する反ニュアンスの姿勢には、イデオロギー上の純粋さと公的な不名誉が与えられる─まさに強力な協力関係を水の泡にし、自分の意見を貫くことを勧めるということだ。

確かに、無益にも徐々に起きている展開が、私たちの社会において、多くの人が当然感じる苛立ちや怒りに通じることは多々ある。今や、小さな一歩やその場しのぎの解決策の時ではない─特に、極端な不平等と不正の時なのだ。

それでも、野心と敵意が結びつく必要はない。実のところ、後者は前者を阻害する。

私たちは、この状況でニュアンスを持つものは歪んだ動機となる、つまり次々とより破壊的な反応を生み出すことに気づくべきだろう。

他ならぬフライホイールが、あらゆる範囲の不平等さ─経済的不均衡から人種差別の不正まで─に働きかけ、福祉が各自の利益の内にある場合は、利己心と社会福祉を競わせている。

私たちの集団的な反応─あるいはその欠落─から地球上の気候危機まで、説得力のある一例が挙げられる。あまりにも頻繁に、気候危機に関する議論が、否定という極端な姿勢に─まさに気候危機の存在自体を否認したり、それに取り組んで活動している人々やグループ、組織の努力を中傷する意見に、強い影響を受けることがある。当然答えは模索中ではなく、すでに出ている─非常に直接的に恐ろしい気候災害という結果に直面している現地のグループによって。しかし、このグループは、反発展的として否定されているグループと同一である。

 私たちフォード財団は、不正の影響をもっとも直接的に受けるコミュニティの声と経験を重んじ、拡大することによって生まれる衝撃を学んだ。そのため、私たちは一つのシンプルな考えを理解する個人と機関を支援している。気候災害を阻止することが、現地のコミュニティの移住や解散、無視を意味しない、という考えだ。そして彼らとしては、実際に何度も現地の指導者たちが発展を受け入れているということを証明してきた─彼らの協力によってなされていることと、彼らのコミュニティのための機会と利益を創出することが定められている。

 もう一つの例はより本国に近い。ライカーズ島、つまりイーストリバーに浮かぶ四一三エーカーに及ぶ八つの矯正省施設群に歩み寄ろうとするニューヨークの努力だ。数十年に渡り、ライカーズ島は、アメリカの刑事司法制度の最も悪い代表的な部分だった。野蛮な環境と狡猾な汚職、そして留まることを知らない残忍さによって、悪名高いところなのだ。そして、アメリカの破綻した営利目的の保釈金システムの結果として、ライカーズ島に監獄された者の八十数パーセントの人が、未だ再犯を試みていない。代わりに、推定無罪に当たる数千人もの人が自らの裁判を─時には数年にわたり待ち続けている。

 ライカーズ島は、誰の記憶にもないほど長い間、大きな改革─建設解体用の鉄球ほどでなくとも─の必要があった。しかし、ニューヨークの刑事司法と投獄改革の第三者委員会が創設された─裁判官や法律家、活動家や教育者、非営利の指導者や司法弁護士のグループ─のは二〇一六年のことで、終いには施設の閉鎖案が立案された。

 委員会のメンバーとして、私は残忍さの温床を閉鎖するため、そして虐待と不正の長い歴史を終わらせるための合理的で実働可能な解決策を提案したと我々の働きに誇りを持っている。これは最も難しい部分で、相反する利益とニュアンスの複雑さに満ちていた。

 一方で、数人の弁護士─刑事司法改革に風穴を開けた数人のコミュニティのリーダーを含む─は、より小さな代替の監獄の建築物に反対しており、このことはライカーズ島の閉鎖を実現可能にするだろう。間違いなく、数人は、こうした施設を自らの近所に欲しくないという、単なるニンビーである。さらに多くの─私が称賛し敬愛する勇敢な先見の明ある─人々は、これらの新しい監獄が、大勢の投獄につながる効果を激化させると主張している。

 疑いの余地なく、一つのコミュニティとして、とりわけ他のニューヨークの刑務所における人間の尊厳に対する愚かな侮辱行為を考慮して説明するために、代替の刑務所を保持する必要があるだろう。そして、より幅広く、私たちが一緒に大量の投獄の根本的な原因に取り組んでいかなければならない─より公正な手段で刑事司法を展開し活用するために。

 しかし、私たちは発展の敵を完璧にさせるわけにはいかない。手順を飛ばせば、我々は新たな不均衡を生み出すリスクを背負う─機会の喪失と協力関係の破綻による不均衡だ。

 実に、こうした例はこの先の道のりを示す助けとなる─極端さから離れる旅路だ。

 まず初めに、私たちの指導者をよりニュアンスに満ちた解決策を探し求め、非生産的な極端さを拒否するよう勧める動機を再び創出する必要がある。例えば、私たちが価値を測るやり方は、環境や社会への負担を全く考慮に入れずに年四回の利益を打ち出す。私たちが選挙区を線引きし、選挙を決める方法は、政党を超えたイデオロギー上の純粋さを支持している。さらに、私たちが行う慈善行為の方法は、そもそものチャリティーが必要性となるシステムを解体するというよりも、許しがたいほどの富裕層がチャリティーを通して自らの評判を隠蔽、あるいは証拠隠滅することを頻繁すぎるほどに認めている。

 また私たちは忍耐強くあらゆる人を包括しニュアンスに富んだやり方を、より生産的なやりとりや、建設的な解決策へと帰着する方法を、既に見出していなければならない。

 私たちは、いかに資本主義が崩壊してきたかを知っている。その一方で、市場が貧困の中で生活する世界中の人々の数を減らす一助となっていることに感謝してもいる。実際に、私たちはビジネス・ラウンドテーブルと一八一の国際的なCEOのグループによって積極的に前へ一歩進んだことを認められるし、また認めるべきだ。彼らはこの夏、株主だけでなく全ての出資者に利害関係を与えるために、企業理念の再定義を協議した。

Business Roundtable Redefines the Purpose of a Corporation to Promote ‘An Economy That Serves All Americans’ | Business Roundtable 

さあ、BRTのメンバーが自らの公約の高尚な原則に見られる企業態度の改革を遂行していることを明らかにしよう。

 人種、ジェンダー性的嗜好、そして階級の断絶におけるこの社会の歴史的失敗─ニューヨーク・タイムズ紙が「一六一九プロジェクト」で如才なく繊細な気遣いを持って説明しているように─は明らかだ。

The 1619 Project - The New York Times

その一方で、世界中で民主的な価値と社会制度を擁護すること、それらを支援すること、そして民主的な過程に存分に参加することが明らかだ。

 私たちは、私的な資産のために必要な、ある高価な共有の品に出資するという現在の需要を享受し、また自らの特権を理解し、機関の改革を支援することを富裕層の各人に奨励する一方で、不正な手段で得た好機に対して批評的になれる。

 もちろん、ニュアンスの必要性さえニュアンス抜きには成立しない。いくつかの場合は倫理的にあまりにも不快で腐敗しているため、ニュアンスが全く求められないこともある。私たちは、政府が両親から子供を引き離したり、幼児を牢に入れて引き離したりすることを抜きにしても、移民政策については反対できる。白人至上主義者たちの路上行進を除いても、税率や規律の範囲について反対することができる。アメリカ生活で避けられない事項である暴力やテロを抜きにしても、合衆国憲法修正第二条の正確な範疇について反対することができる。

 この類の理性を持って─この類の複雑性を持って─希望への根拠を見いだすことができると信じている。共通項と共通の背景を取り戻すことができるという希望、共通善のために共通の動機を共有できるという希望、自らの手を差し伸べ、誠実さや、時には疑わしきは罰せずという姿勢を見せることができるという希望である。